小牧山城築城

城は山全体(約21ヘクタール)を築城とし、縄張り研究では山頂の主郭地区、正面に当たる大手曲輪地区、本丸の西に当たる西曲輪地区、大手口西側に当たる西部帯曲輪地区、西裾にあたる西側谷地区、家臣団屋敷の東部帯曲輪地区の6つの地区で構成されていたと記されています。

特に麓の東部帯曲輪地区は信長の下屋敷と考えられている南西隅のひときわ大きな曲輪を始まりとして、反時計回りに重臣の屋敷と考えられる方形の曲輪が取り囲んでいます。
本丸へのアプローチは、南に設けられた大手口から上がり、大手道は直線的に中腹まで登っており、そこから折れて本丸に入る構造を取っています。

この姿が後の安土城の姿に酷似していることから、安土城に先行する城の姿として信長の意識が表れているといわれています。

しかし、直線的な道を中心とし左右に屋敷を振り分ける曲輪配分の作り方は、山岳寺院によく見られるスタイルであり、谷部の中心に道を据えた丘陵地形を活用した城造りの基本的な形であると考えられます。
そういう意味においては、小牧山城も安土城もまだまだ中世・戦国色の強い縄張り構造であるといえるでしょう。

麒麟の城(信長花押)

戦国時代、手紙の最後のサインとして使われていた花押(かおう)。
信長は一生の間に10回も花押を変えたといわれている。
信長16歳の花押は家柄重視。13歳の元服で三郎信長と改名し、後に父信秀が死に、信長が家を継いだ天文18年頃に初期の花押は誕生した。足利様という足利将軍家の花押を意識したもので父信秀の花押に似ていた。

信長21歳の花押は自分の名前。右の部分は「信」の字を裏返して図案化し、左の部分は「長」の部分の草書体を裏返し使用している。ここから庶兄に反旗を翻す信長の意思が読み取れる。花押を変えた翌年、同族の織田信広(父信秀の子・信長の庶兄)を討ち清洲城主となった。

信長32歳の花押は有名な麒麟。この花押は、信長16歳の家柄重視の花押や21歳の名前をも
じった花押と違って、中国で“世か平和になった時に現れる伝説上の獣”とされていた麒麟の「麟」
の字を象ったもので、これまでの花押から一変して平和への強い決意がみえる。

1565年、覚慶(のちの足利義昭)は次期将軍の座を狙って、各国に支援を願う御内書をくだしており、信長のもとにも届いた。同年12月、信長は義昭の家臣細川藤孝に対して上意がありしだいお供をすると返事をした。その時使われていたのは麒麟の花押である。

この花押から、信長が何を目指し何のために戦おうとしていたかが伝わってくる。
この花押が使われたのは、小牧山城在城時代と岐阜城在時代のはじめ。
それにより、小牧山城は麒麟の城と呼ばれる。

城下町

小牧山城の歴史は、永禄6(1563)年に清須から居城を移した織田信長によって、小牧山に城が築かれたことから始まります。
小牧山城は、山頂に石垣が築かれるなど、石を多用する画期的な城でした。
信長は、小牧山城を築くのと同時に、城の南側に城下町の整備をしました。
築城から4年後、永禄10(1567)年に信長が岐阜に居城を移したことで小牧山城は廃城となり、家臣団や城下に住む多くの商工業者が城下町を後にしました。しかし、一部の住人はこの地に残り、小規模な町場が存続しました。
江戸時代に入ると、尾張藩は上街道(木曽街道)の整備を行いました。これに伴い、元和9(1623)年から10年間で小牧山城下町の名残の町場を小牧山の東約1kmの場所に移転し、宿場町として整備しました。その後、城下町全体は最後まで残った町場の付近に「元町」という地名を残し、徐々に田畑へと変わっていきました。

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家康時代

小牧・長久手の戦い

小牧山城が廃城されて17年後。信長亡き後、羽柴(豊臣)秀吉軍と織田信雄・徳川家康連合軍の間で小牧・長久手の戦いが起こりました。
信雄・家康連合軍は、秀吉軍を迎え撃つため、わずか5日間で小牧山の土塁を高め、堀を深くし、要所に砦を築いたといわれています。
小牧山城を前に両軍のにらみあいが続きましたが、結局はここで戦いが行われることはありませんでした。

その後の小牧山は、尾張藩の領地となり、一般の入山が禁止になりました。
江戸時代に城の遺構が破壊されることがほとんどなかったため、遺構はそのまま土中に残されタイムカプセルのようになっています。
家康の造った堀や土塁が残る小牧山は、今でも戦国時代から時を止めているかのようです。

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小牧山城の歴史年表

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「織田信長公」の歩みを現代において体感できる広域連携の路を確立し、信長公の居城をキーワードとした共同PRなどで観光振興を図ることを目的として、岐阜市、近江八幡市、小牧市、清須市の四市が連携し、「信長公居城連携協議会」を設立しました。

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